聖書の楽園追放から見るウォルニッケ脳症 ━━智慧の実と、ビタミンB1欠乏症

世界伝承病理学研究会著


* 今回はサクッと短く。

 

 ◆◇◆

 

旧約聖書によると、世界で最初の人間は、アダムとイヴである。

彼らは、神の作った美味の食べ物が満ち溢れる「楽園」に全裸で住んでおり、その際、寿命も存在しなかったという。


その楽園には一本だけ、特別に神が食べることを禁じる「知恵の実」が生えていた。

ところがある日、イヴとアダムは悪魔に誘惑され、智慧の実を食べてしまう。


約束を破ったと激怒した神から罰を受け、彼らは楽園を追放される。

以来。

智慧を身につけた人は、裸体を恥じて服を身にまとい、同時に寿命も短く定められてしまったという。


これが、聖書における楽園追放のサマリーである。


神学において、このエピソードは、人間の堕落と、後々のキリストによる救いを教えていると解釈される。


さて、読者諸君は、これを読んでどのようにお考えだろうか?


数千年前の御伽噺とはいえ、現代の文明社会に生きる私たちには、このエピソードはどうにも現実的には違和感だらけのように思える。

 

まず裸であることに日常的に気づかないなど、気温が体温とほぼ同じでないとありえない。

ゆえに楽園は、赤道か熱帯に近い場所であると推察できるが、そうなると強烈な日光、蚊やツェツェ蝿、シラミなどの虫の存在が懸念される。

楽園には乳と蜜の流れる川があったという記述もあるが、これはミツバチと、乳牛、ヤギなどのエサが豊富な草原が近くにあったことを示す。当然、虫も大量に生息していたはずだ。

 

蛇が悪魔であり、言葉を喋るというのも、幻覚、幻聴と言った精神疾患を想起させるし、そもそも木の実を食べたら、急に頭が良くなるというのが、受け入れられない。


現代において、知られてる頭の良くなる食べ物は、キヌアやアマランサス、などのスーパーフードか、DHAなどの魚類である。

それらは木の実ではない。

 

そもそも頭の良さなどというのは結晶知性、流動知性、数学的論理的知性 、言語学の知性 、空間知能、ミュージカルインテリジェンス、身体運動感覚知能 、イントラパーソナルインテリジェンス 、対人知能 、自然主義的知性 、実存的知性など、複数の領域にグラデーションとして広がっており、定数定量的には評価の可能なものではない。

 

 


ならば、逆転の発想で、悪かった頭が普通に戻ったと考えるべきではないか?


、、、と言う解釈が、本稿の骨子である。


以下、薬としての智慧の実と、ビタミンB1欠乏症、そして、聖書の楽園追放におけるウォルニッケ脳症について、考察する。

 

  ◆◇◆

 


さて。

飽食=健康、幸福。

聖書ではこのように語られるが、現代の我々は、それが間違いであることは、すでに知っている。

中性脂肪を燃やす、
健康断食、
ダイエット、
特定医療保険食品、

読者諸兄も、こう言った広告を目にする機会は度々あるだろう。

肥満と、2型糖尿病との関係も、よく知られたものだ。

楽園=食べ物がたくさんあった、と言う点が盲点になるが、新型栄養失調や、栄養素欠乏症によるブレインフォグという観点から見ると、智慧の実のエピソードは、腑に落ちる要素が多々ある。

 


まず楽園に居たと言うのを、字義通りに解釈するなら、それは現代では動物園のゴリラ飼育に重ね合わせることが可能だろう。

檻に囲まれて外敵から守られる。
安全で、暖かく、いつでもエサに困らない様は、まさに楽園だ。


しかしながら現代の動物園では、ゴリラに美味しいバナナは頻繁には与えられない。与えられのは、おおむねサラダである。

 

甘い糖を含む食物は、美味しいため、ついつい手が伸びてしまう。
そのため栄養が偏る。


にも関わらず、血糖値上昇による満腹感から運動が減り、腸内細菌が乱れ、摂食時間も短くなり、逆に不健康になってしまう。

そもそも、ゴリラの野生下での生息地にはバナナは生えていないのだ。

 

端的に何が言いたいかと言うと、つまり、生物の生態とは、常にニッチな環境に適応したものであり、それは恒温性で、環境変化に対して適応力のある哺乳類であったとしても、


「本来の生息地にないような美味しいもの」は、食べすぎると体に悪くなるということである。

 

無論、人とサルとでは、食生活が異なるという指摘もあるかもしれない。

しかし、人は生物学上、霊長類の一員であり、血のついた生肉を見てヨダレは垂らさないし、生食はサラダとフルーツ、オイル、木の実、キノコ、虫と小魚、(付け加えると貝類)などである。

調理、という「文化」を無視すると、サルと人間の食生活の基本パターンは、生物学的に、おおむね一致している。

 

聖書の楽園でも、アダムとイヴは、現代の飼育下の霊長類と同じように、近場で取れる美味しい同じものばかりを食べて、食生活や栄養素はかなり偏っていたと推測できる。


結果、糖の過剰な摂取により、新型栄養失調のような肥満体となり自律神経とホルモンバランスの乱れから寒さを感じなくなり、


さらにビタミンB1不足によるウェルニッケ脳症や、コルサコフ症候群から、意識障害を起こして、暑熱環境を回避しない、錯乱状態から裸になっていたのではないか?

追放後に服を着るようになったというのも、住居を移動して、その先の環境に適応するためだったと解釈した方が自然である。


軽くウェルニッケ脳症、そして、それが重度化することによるコルサコフ症候群について説明すると、これは、

 

意識障害、失調性歩行、眼球運動障害、
記名力障害、

失見当識(時間や季節がわからなくなる、楽園には季節がないという聖書の記述と一致する)

作話(わからないことに対し、でっち上げのウソをつく)

などの症状を中心とする健忘症候群である。

 

ここで、知恵の実の正体が、ビタミンB1豊富な果物で温暖な気候に生えていると言う推論が、なりたつ。

 

  ◆◇◆


一般的に智慧の実は、りんごと称されるが、そもそもりんごは雪の降る寒冷地の植物であり、暑さに弱いため、人が服を着ずに裸で過ごせるような気温36度環境での栽培は難しい。

つまり、智慧の実=りんご、は誤りではないか?


中東に自生するいちじくやブドウも、ビタミンB1を含むが智慧の実の候補の一つではあるが、これはなぜかユダヤで、特別視されこそすれ、「智慧の実」と呼称されることはない。

他のビタミンCなど栄養素欠乏を補う果物も、東南アジアや、アメリカ原産が多く、聖書の舞台からはかけ離れている。


そこで本稿で提唱したいのが智慧の実=マンゴー説である。

 

理由は、栄養が価高く、神聖な果物であり、触れるとかぶれるためである。

 


マンゴーは、インドのアッサム地方に自生するビタミンB1を多く含む植物だ。
そのため古くから、その存在は神聖視されてきた。


栽培も紀元前から始まっているとされており、仏教では、聖なる樹とされ、ヒンドゥー教でも、万物を支配する神「プラジャーパティ」の化身と解釈される。


アソカノキ(無憂樹)、インドボダイジュ(インド菩提樹)、サラノキ(沙羅双樹)、マンゴーとエンジュを加えて「仏教五木」という言葉もあるくらいだ。


栄養価が高く、共同体の維持に貢献した作物が、祭り上げられるのは、当然の帰結である。

悪魔憑きの項でも述べたが、神聖は、カロリー摂取の増加と防疫であり、未病だ。


さらに、服を着るようになったエピソードも、マンゴーの持つウルシオールに似た「マンゴール」という接触性皮膚炎(かゆみ、かぶれ)と考えると、これも符号が一致する。

 

 

思えば、インドは仏教でも天竺などと称され、特別視された。これは、その気候と、植生に起因する可能性がある。


聖書の舞台とマンゴーの自生するインドのアッサム地方では、場所が離れすぎているという指摘もあるだろう。

 

しかし、ユダヤの民は、放浪の民だ。
さらに、聖書には自らの肌が黒いことを賛美する記述もあり、楽園「追放」という観点から見ても、かなりの距離を移動したことが窺える。


飢饉や交易などの理由から、アッサム地方とまでは行かずとも、マンゴーの生育が可能な地域まで、足を運んでいてもおかしくはない。

少なくとも、追放後は、何日か歩いてすぐに戻れるような場所に、移住したわけではないはずだ。


今後のアシュケナージユダヤ人のルーツに迫る遺伝子系統解析の研究が、待たれる。

 

  ◆◇◆


さて、そもそも旧約聖書が成立する以前、楽園の前に、ユダヤの民が信仰していた神は、キウン、サクテ、モロクが挙げられる。


旧約聖書では、たびたび唯一神は、なぜか一人称を我々と呼称する。

神学的な解釈をするなら、これは、日本語における「朕」のような、自己の最大級の高貴さを表現していると捉えられるだろう。

しかし普通に解釈するなら、これは、キウンや、サクテ、モロクなどを信仰する人間が、共同体の中で排除できないほど有力な位置についていたことを意味するだろう。


聖書でも、預言者がたびたび、ヤハウェの信仰に立ち返れと苦言を呈している記述から、かつての神々から、ヤハウェに信仰が移るのにはグラデーションが存在したことは、明らかだ。

 

 

ではなぜ信仰が、変わったのかというと、生活環境が変わり、共同体の存続させるために守らなければならない生活のルールが変わったことを暗示するだろう。


悪魔憑きの項でも述べたが、宗教は、病理と政治に分けられる。(追記・誤訳も、病理、政治、と同列に含まれる)

信仰や儀式は、環境を生き延びるための政治だ。


ゆえに聖書を解釈する際は、教えが誕生した当時の生活環境を、想定する必要がある。

事実、ユダヤ教において、シャブオットの期間にはリンゴを食べるなど、祝日やローシュ・ハッシャーナーのような特別な機会には、特定の果物やハーブを食べる習慣があったという。

これは、裏を返せば、特別な日にしか、果物と野菜を取れなかったということではないだろうか?


楽園以前にもユダヤの民、あるいは、そうとされる個人は、砂漠の放浪生活で肉や豆、虫、バターばかり食べて、野菜は口にできず、結果、ビタミン欠乏症から、脚気や鬱が、慢性化していたのではないか?


さまざまな状況証拠から横断的に推測すると、古代環境で、栄養素欠乏から、常に脳に負担がかかっており、

 

ウォルニッケ、サルコサフ症による、作話の症状が、共同体の中の有力な人物、あるいは、始祖のきわめて個人的な経験に出ていたと考えられる。

 

すると、生まれた時から楽園に居たというのは、記憶障害であると捉える事が可能だ。

 

神がアダムを作った時、既に成人してるのは、神の奇跡ではなく、病態が重篤であり、幼少期の事をまるまる健忘していたと理解できる。

 

蛇に誘惑されたとあるのは、豊かな水源を辿っていったと考える事も出来るし、現実に水の近くに生息する蛇を見つけて、追いかけたとも、推察可能だろう。

クスシヘビ、アスクレピオス、ヒュギエイア。
世界的に見ても蛇は、堕落の象徴ではなく、医療、人助けのものだ。

が、なぜか聖書では逆転している。

これは、蛇そのものが原因ではなく、智慧の実由来の皮膚かぶれや、その後の生活環境の激変によるものかもしれない。


病態による作話の一例が、神話になるというのは、非常に興味深い。

 

ブレインフォグで、意識障害起こして、体調不良を言語化出来ずに朦朧してるときに、


蛇を追いかけて最終的に見つけたオアシスで、果物をゲット。

思い切り食べて頭スッキリ!


だけどそこには先住民いたため、縄張りでの窃盗=原罪を咎められて、逃げ出しました、

逃げてから時間差で肌がかぶれたり、環境が寒くなったり、逆に砂漠で熱傷になったため服を着るようになりました。


地元民に大事にされている神聖な植物を窃盗したため、当然、もうあの楽園には戻れない、、、


当事者はそう子孫に伝え、自身も極度の栄養飢餓状態からの回復だったため、脳に後遺症が残り、早晩に命を落とす。

 


と言う史実を、作話、脚色したのが、聖書の楽園追放の一幕なのではないか。


先に述べたように、神学において、楽園追放は、人間の堕落と、後々のキリストによる救いを教えていると解釈される。


しかし、医学的観点から考察すると、
スーパーマーケットでは、偏った同じものだけを買い続けてはいけない、栄養素のある果物もたまには食べましょうという、よくテレビで耳にする一般論となるのである。