悪魔憑きを化学する(改稿版)、 局所性ジストマと宗教の起源

 

世界伝承病理学研究会著


◆◇◆

1.


貴方は悪魔憑きについて、ご存知だろうか?


簡単に概略を説明すると、「悪魔憑き」とは、悪霊や魔物が人の体に憑りついて、その人を支配する状態のことを指す。

これは、古代から現代まで、世界中至る場所で語り継がれてきた話だ。

不思議なことに、悪魔憑きにおかされた人は、異常な行動や言動、身体的な症状が現れる。

たとえば、意味のない言葉を話したり、奇妙な声を出したり、身体をけいれんさせたりする。また、目つきが変わったり、自分自身を傷つけたりする場合もある。


これらの症状は、現代医学の観点から言えば、悪魔憑きと診断されることはほとんどない。

おおむね、心身症てんかん、パーソナリティ障害などが原因であると認識されている。


がしかし、本論では、これを脳疾患である、局所性ジストマや、一過性脳虚血、その他複数の要因を含む「病理」と位置づけ直し、その社会的受容について探るものである。


まず、悪魔憑きと酷似した症例や概念を包括的にまとめて、世界各地の伝承や言い伝えを取り上げる。


そしてそれを、フレイザーや、デュルケームらのような従来の

「聖」「俗」
「聖」と「邪」
「ハレ」「ケ」

といった概念の総体ではなく、

「病理」と「政治」に二分化する。
すなわち、


「さまざまな病理の複合疾患と、それらを束ねたシンボル化」したもの、

=『病理』


「病理の消費化、宗教や民族の概念」


=『政治』


という2点の解釈から、本論は悪魔憑きを考察するものである。


構成としては、第一部で、「古代の」悪魔憑きたちの多様性とその分類を行い


1、悪魔憑きの起源について

2、悪魔憑きの社会的な受容について


解説する。

そして、続く第二部で、今度は「現代の」悪魔憑きたちの病理名としての多様性と、その分類を行い

 

3、悪魔憑きの病理としての理解について述べ、


4、進化心理学から解釈する悪魔憑きの有する文化、エンタメ性、

についてを扱い、最後の第三部で、


5、その学術的な理解の変遷について総括、

フロイトヤスパースデュルケームフレイザーなどの解釈と本論との違い


についてを、述べる。


医学的な言及が多いため、少々難解な用語も使われるため、解説も多くした。

お楽しみいただけたら、幸いである。

それでは、医学というカンテラを片手に、古代の闇の世界に降りていこう。

 

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1、悪魔憑きという言葉の多様性


初めに、「悪魔憑き」という言葉と概念の多様性、多義性について説明する。

前述したように、「悪魔憑き」とは、悪霊や魔物が人の体に憑りついて、その人を支配する状態のことであり、古代から近代に至るまで世界中で語り継がれてきた逸話だ。

 

症例としては、以下のようなものが、挙げられる。

急に錯乱する。暴力的になる。
声が野太くなる。悪魔のような声でうなる。
けいれんを起こす。あるいは、階段を這ったりする。不可思議な運動が目立つようになる。
顔がやつれてくる。

四つん這いになって歩き回る。

目がキツネのように吊り上がり、人相が変わってしまう。

獣のにおいを感じるようになる、誰もいないのに誰かの声が聞こえる、自分の感情が制御できなくなる、虫が異様に発生する。


このような事が、古代からの悪魔憑きの症例とされている。

例を挙げると、

聖書では、サムエル記において、王サウルは悪霊に襲われ、悪霊の働きでダビデに横暴の限りを尽くし、誠心誠意忠実なダビデを許した時に悪霊がサウルから去ったエピソードがある。

ブライアン・P・ルヴァックによれば、『新約聖書』においてキリストとその使徒たちが悪霊を追い払ったという記述は50箇所ほどあるという。

1630年のフランス王国中西部でも「ルーダンの悪魔憑き」 (Loudun possessions) と呼ばれる事件が女子修道院で発生し、修道女がエクソシズムを受けた結果、悪魔としてイエズス会士のグランディエ教区司祭を名指ししたため、彼は火刑に処されたようだ。


我が国においては、歴史に残る一番古い悪魔憑きの資料は、狐憑きと呼称される。

平安時代初期に成立した仏教説話集「日本霊異記」下巻第二には、

狐に憑かれた人が死に至ったり、人に憑いた狐が犬に噛み殺されたりする話(永興説話)が記されており、これは悪魔憑きの症例と一致する。

 

また、「狐が憑いた者」の中には託宣など神懸かり的な言動をするとの記述も含まれており、これは、かつて柳田国男が分類した巫女の一種「神姥」の出現ともよく似ている。

ここでは普段何の兆候も見られない女性が、産前産後や身体の調子を崩したことをきっかけとして、何物かに「憑依」され、前述のような経緯を経て、周囲から霊力のある巫女として承認される様子が記されている。

また、平安時代末期に成立した『今昔物語集』本朝附霊鬼部第四十にも不思議な力を持つ白い玉を持った狐が女に取り憑く様子が描かれており、当時の憑霊信仰を色濃く反映していると考えられる。

 


つまり悪魔憑き=狐憑き=神がかりなど、言葉こそ違うものの共通する症例として、とのケースも、

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急に錯乱する。暴力的になる。
声が野太くなる。悪魔のような声でうなる。
けいれんを起こす。あるいは、階段を這ったりする。不可思議な運動が目立つようになる。

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といった、共通の症状を伴っている。


狐憑きの他にも、悪魔憑きの症例に類する言葉として、「猫憑き」「狼憑き」「ベルセルク」「中二病」「ヒステリー」「紹霊」「くちよせ」「チャネリング」「神下ろし」「降霊」「交霊」「シャーマニズム」などが挙げられるだろう。


ところがだ、これらの症状ほ、とても良く似通っているにもかかわらず、その社会での受容のされ方は、それぞれ大きく異なっている。

言うまでもなく悪魔憑きは、祓うもの、穢れ、病気として扱われるのだが、


ベルセルク」「神がかり」「シャーマニズム」「くちよせ」などは、治療の対象ではなく、神の恩寵として、尊敬、崇拝され、驚きを伴った神聖視をされる。


さらに、「神下ろし」や「降霊」に至っては、病理の再現であり、演劇であり、自発的な行為ですらある。


悪魔憑きについて語る時、本論ではまずその点について、留意せねばならない。

これが先に述べた、悪魔憑きの「病理」と「政治」の2分割である。


簡単に述べると、悪魔憑きは、まったくの自覚なしに行われることもあれば、意識的に行われることもあるということである。


そこで本論では、両者の区別を明確にするために定義付けを行う。

純粋な病理現象として生じる悪魔憑きを

『真性・病理型悪魔憑き』

 

人が意図的に、誘発的に、演技として行われるものを、

『学習性・病理型悪魔憑き』

と、区分する。


改めて繰り返すが、

真性は、病理現象であり、

学習性は、恣意行為、政治行為である。


ただし断りを入れておくと、この政治と病理の概念は、私たちのオリジナルな考えではない。


川村邦光は、『幻視する近代空間ー迷信・病気・座敷牢、あるいは歴史の記憶』青弓社, 1990年

において、現代に起きた「憑依」事例として、1980年代の「コックリさん」にまつわる騒動をA.クラインマンのヘルスケアシステム議論と重ね合わせて論じている。


これは、人々の病気への対処行動や保健活動を大きな1つの文化システムとして3つ のセクター(民間・民俗・専門職)捉えるという視点から宗教を指摘したものだ。


乱暴にまとめると病人、病院、介護施設が、それぞれ単体では機能せず、村の中でセットになって、宗教として枠組みで扱われていたという考えである。


共同体による解釈・承認の上に成立する「憑依」という現象。

現代風にいえば、これは、『劇場型政治』だ。

その性質が本質的に持つ、人が人を支配するカラクリのため、これらを分析する際には細心の注意が要求される。

受容のされ方で、悪魔憑きを論じる際に、混乱を招く恐れがあるからである。


そこでまずは、病理の現象のみを解剖し、真性病理型悪魔憑きについて記す。

 

 
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急に錯乱する。暴力的になる。
声が野太くなる。悪魔のような声でうなる。
けいれんを起こす。あるいは、階段を這ったりする。不可思議な運動が目立つようになる。

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さて、前述したように、真性病理型悪魔憑きの症例は、私たち自身の意思を伴わない肉体の運動である。


まず、ここで何が起きているのか分析すると、すなわち、主体の持続性、自己の意思や、行動の決定権、その一時的な喪失が、生じていることになる。

自己や、それにより生み出された意思は神聖不可侵なものであり、それらは睡眠や失神、飲酒、ドラッグといった外部的な要因がなければ起こり得ないという前提認識がまず存在し、

(実際、シャーマニズムにおいて、ドラッグや酒は世界的に使用される)


その結果として、超自然的に起こり得ない事が起こる、

これは悪魔、神の仕業だ!

と受容されるわけだ。


ところが、である。

現代において私たちは、このパラドックス、、、、肉体が自らの意志に反して動くことを既に知り得ている。

例えば、

化学者ルイージ・ガルヴァーニは、死んだカエルの足に電極を刺して、ピクピク動かすことができることを証明した。


人間でも膝蓋腱反射(DTR:Deep Tendon Reflex)では、太い骨格筋につながる腱を、筋肉が緩んだ状態で軽く伸ばしてからハンマーなどで叩くと、一瞬遅れて筋が不随意に収縮する。

これは筋肉が損傷するのを防ぐための反応であり、人体にみられる生理的な反射の代表的なものだ。


ラザロ兆候では、臓器ドネーションなどで麻酔をかけずに脳死患者の開腹手術を行うと、無意識状態にも関わらず、体は痛みを感じるかのように激しく痙攣して暴れ出す、


そもそも心臓の拍動は、不随意筋で構成されているため、自立して動く。

現代化学の領域において、私たち自身の意思を伴わない肉体の運動は、なんらナンセンスなものではない。


そもそも我々の意思、主体性の持続、そういったものを素朴に信仰することは、危険だ。

これを読んでいるあなたを構成しているアミノ酸やらタンパク質は常に崩壊し続けて、2年に一回は全身の細胞がまるごと入れ替わるとされているし、


アランナ・コリンズは著書「10%human」で、人間の体重に比して、人間自身の細胞は10%しか存在しておらず、その意思決定や気分は大部分が、私たちの腸内に共生している細菌叢とその代謝産物による化学物質で生成されていることを示している。

 

自由意志の決定権は、0.2秒ほどしか存在せず、意思があって行動しているのではなく、行動を後から意思であると誤認しているに過ぎないと、アメリカの生理学者ベンジャミン・リベットは実験論文「マインドタイム」で発表した。

 


無論、分裂病や、多重人格もなどといった精神障害も、ミルグラム実験アイヒマンテスト、スタンフォード監獄実験、、、ベンサムパノプティコン、割窓理論、青い電灯...etc

人間の「意思」とやらにかかわらずその行動を歪める現象は多々存在しており、


そう言う意味合いにおいては、それらは全て広義での真正病理型悪魔憑きに含まれるのではないか?

ナチスやジョーンズ寺院、ブランチ・ダビディアンなどの事例は、集団の悪魔憑きそのものであろう)


つまり、人々の行動を歪める原因として、真正型の悪魔憑きは現在、おおむね精神障害としての解釈をされる。


が、それは現代に限った話であり、未来においてもその解釈が持続する保証はないという事である。

悪魔憑きになるか、ならないかを決定するのは、集団の中のある一定の数のパーセプションであり、異常行動を取る人間ではない。


なので、事実として生じてくる、異常行動の原因を、病理の一種として捉え、それを悪魔憑きと総称する態度を本論では取る。

つまり、真性病理型悪魔憑きの中にも、複数のサブタイプが存在すると主張する。

人間の生物学的、生体的エラー、

つまり肉体の不随意運動は、自然界に普遍的に存在する事象であり、決して特別なものではない。

むしろ、精神や意志、もっとラディカルに言えば、魂という主体、自由意志の絶対性というイメージの方が誤りであり、行動理由を後付けするためのエクスキューズである。

ここに悪魔憑きの多様性が潜んでいることを、本論は主張する。

 

翻って、身体の不随意運動を細分化して見てみよう。

過去の例では、江戸時代の香川修徳は、「一本堂行余医言」(呉秀三編『呉氏医聖堂叢書』1923年に所収)において、「狐憑き」という名称そのものを否定し、それまで多様な心身の「異常」について大まかに「狐憑き」と総称されていたものについて、「癇」を三分割にし、

「驚」・「癲」・「狂」として論じた。


それぞれ、


【驚】…「いつも驚恐・畏怖」を覚える症状
【癲】…「癲癇」
【狂】…以下のとおり
香川修徳は「狂」の定義をすることはなく、多様な症状を羅列するにとどめている)

【狂の症状】
猜疑心が深くなる・人を恐れ人を拒むようになる・終夜眠らずに妄想にとらわれ深く考え込む、清潔にしすぎる、傲慢で自惚れが強い・憂愁すべきでないことを憂愁する・ひとりで笑い喜び狂乱をなし本心を失う・歌い笑いやっきになって走り回る・高い所に上り垣根を跨ぐ・高貴で才知があると自らおごりたかぶる・自分で経験したこともないことを見たという・低い声で独り言をいい人を避けて隠れる・親疎の別なく罵る・着物を破り器を壊し異常な力を発揮する・着物を着なくても寒さを感じない・よく鬼神をみる


などを挙げた。が、現代において、これらの症例はシゾイドパーソナリティ障害や、脅迫性障害、間欠性爆発発作など、精神病のいくつかに、名前を変えて解釈されるだろう。

(キリストなども、自己愛性パーソナリティ障害、同一化、という精神障害から分析可能である)

さらに、「森田療法」という精神療法を始めた戦前の精神科医森田正馬は、神がかりや狐が憑いたなどとされていた状態を「祈祷性精神病」と名付け、感動をもととして起こる一種の自己暗示性の精神異常と規定した。

この記述は精神医学用語を網羅した『精神科ポケット辞典』(弘文堂)によるものだが、ここではさらに「宗教妄想」という用語までが存在する。その説明には、「自分は偉大な預言者、キリストの再現である、天啓を受けたというような宗教妄想をいう。神の声を聞いたり、姿を見るという幻覚から発展する場合もある」とある。

 

これらは、原因が直接的に記されているわけではないが、非常に示唆に富む内容である。

ただ前述したようにこれらは、症状により悪魔憑きを分類しているため、別々の病理であっても混同が起きやすい。

そこで、本論では、症状による分類ではなく、解明された特定の原因から逆算して、悪魔憑きを分類することとする。


似通った症状で、一口に悪魔憑きと言っても、条件が変われば複数のサブタイプとして捉えることが可能であるからだ。


地理型、
天候型、
天体運動型、
自然現象型、
遺伝性型、
細菌型、
臓器型、
ウイルス型
植物型、
脳処理型、
細胞型、
民族性、


etc悪魔憑きには、様々な要因が考えられる。

その中で、一番わかりやすい例をあげると、真正病理型悪魔憑きでは、

局所性ジストニアの存在が、想定される。

 

「俺の右手に封印された悪魔が暴れる!」

漫画などでよく見るこの場面は、ジョークでも演技でもなんでもない。

局所性ジストニアは、バイオリニストなど、特定の動きを長期間繰り返した結果、これまで当たり前に行っていた動作ができなくなる病気で、仕事が続けられなくなる要因にもなりうる重篤な症例だ。


どうやらこれは、脳の大脳基底核、大脳皮質、視床、小脳における電位異常によって発生する疾患であるらしい。

が、個人差が大きく現代でも根本的な治療法が未だ確立されていない。

また、ジストニアは、遺伝子変異(一次性ジストニア)と他の病気または薬剤(二次性ジストニア)に分けられる病であり、

あっかんべー

の元にもなったとも考えられる(顔面麻痺、弛緩も症例に含まれる、語源は赤い目とされ、暴れて結膜下出血したこともあるかもしれない)。

さらにこの場合には、全身に取り憑く悪魔が複数の場合もあり、

1つの部位(局所性ジストニア
隣接する2つ以上の部位(分節性ジストニア
隣接しない2つ以上の部位(多巣性ジストニア
体幹に加えて2つの異なる部位(全身性ジストニア

などに、分類される。

腕だけでなく、のどでも発症すれば、けいれん性発声障害が起きる。

発声を制御する声帯の筋肉が不随意に収縮した結果、話すことができなくなるか、または声がひずむ、ふるえる、かすれる、ささやき声になる、ぎくしゃくする、甲高くなる、途切れる、不明瞭になる。


この条件で患者が痛みを感じれば、それは当然、悪魔の雄叫びになる。
逆に穏やか話せば、神の託宣になるだろう。


また、この病気は個人差が大きいことを先に述べたが、複数の症候群の集合体である可能性も否定できない。
同じ動作を反復するのは、精神疾患の脅迫性障害も発病している可能性がある。

発作で暴れて頭をぶつけ、

結膜下出血などを起こせば、瞳も真紅に染まって、痛みによるデス・ヴォイスで舌を剥き出し、よだれを垂らして暴れ回る悪魔の完成だ。


その状況で、アンネリーゼ・ミシェル(1975年にカトリック教会の悪魔祓い儀式・エクソシズムを受けたドイツ人女性。この年の翌年、1976年に死亡した、悪魔憑きの肉声が記録テープに現存する)

のように、若い女性なら性被害なども考えられるだろう。
なにせ体の自由が効かないのだ。

(アンネリーゼは生前「今日の我儘な若者たちや、現代におけるカトリック教会の背教的な司祭たちのために、死んで償うこと」について語っていた)

 

局所性ジストニアの他にも悪魔憑きの起源になったと考えられるだろう事象は多数ある。

トゥレット症候群は、「チック」と呼ばれる特徴的な運動や音声が自分の意志とは関係なく突然現れ、繰り返す症状が1年以上みられる病気だが、
これもとても良く似た行動を取る。

分類すると、

複雑運動チック:飛び跳ねる、キックする、倒れこむ、叩く など
単純音声チック:意味のない「ん」などの音声を発する、鼻を鳴らす、咳払いをする など
複雑音声チック:場にふさわしくない汚い言葉を発する(汚言)、ほかの人が言った言葉を繰り返す(オウム返し) など


といった動作を繰り返すが、注意欠陥・多動性障害や強迫性障害などを合併したり、睡眠障害などの生活リズムが乱れたり、衝動的な行動がみられることもある。

また、ギランバレー症候群でも眼筋麻痺、反射喪失、顔面の筋力低下による表情なくなり能面化、歩けなくなるなどの障害がある。
表情がなくなり、歩けなくなるなど、典型的な、もののけや、憑きものの症例だ。


ハンチントン病もまた、ジストニアと似た不随意運動、行動障害、精神障害を行う。

これも脳の特定の部分である大脳 基底核 や大脳皮質が変性・萎縮してしまうために生じる病だ。

遺伝子解析で、患者の第4染色体に局在している遺伝子(IT15に核酸3個(シトシン・アデニン・グアニン)の繰り返し配列が異常に伸びていることが原因で、発病するとされてる。


また、抗NMDA受容体抗体脳炎でも、暴れ回る、呂律が回らなくなるなど、悪魔憑きの症例と合致する症状が現れる。


こちらは自分自身に対する免疫のエラーが原因だとされており、出現した抗体(異物に対する武器)によって脳がダメージを受け、そのダメージを受けた部位により行動が変わる。


この病態の際立った特徴として、女性に特有の卵巣奇形腫(卵巣にできる腫れ物)を合併するケースがある。卵巣奇形腫を患う女性のなかには、抗NMDA受容体抗体脳炎の元となる抗体を産生しやすい方がいるようだ。


そもそも、女性は出産後、授乳を行うために腸管の抗体産生細胞が、血液を通り乳腺に移動するため、免疫力が一時的に低下することがわかっている。
東北大学農学研究科 食と農免疫国際教育研究センターの野地智法教授)

 


前述した、「狐が憑いた者」や、柳田国男が分類した巫女の一種「神姥」において、普段何の兆候も見られない女性が、産前産後や身体の調子を崩したことをきっかけとして、何物かに「憑依」され、前述のような経緯を経て、周囲から霊力のある巫女として承認されることなど、いかにも、出産後の母体免疫力低下や、抗NMDA受容体抗体脳炎と何らかの関係がありそうだ。

 


他にも一過性脳虚血発作(TIA)も、重要な候補の一つとして考えられるだろう。

これはその名の通り一過性の脳虚血によって、短時間のみ神経異常が発生し、おおむね24時間以内に症状が消失する病態である。
症例としても、運動麻痺に失語、半盲、一過性黒内障と、悪魔憑きの症例が一揃いセットになっている。

診断項目は、FASTチェックと呼ばれ、


FはフェイスのF、
AはアームのA、
SはスピーチのS、
TはタイムのTである。


脳は右脳と左脳に分かれており、それぞれ体の逆側を動かすような仕組みになっている。
右脳に障害が起きていれば、体の左側が動かず、逆に左脳に障害が起きているなら、体の右側が動かせない。
ゆえに、顔や腕などを自分の意思で動かすことで、異常の起きている脳部位を大まかに調べる方法である。

フェイスでは、口を大きく「い」の形にして、口が動かせるかどうかを確かめる。
アームでは、左右の手を肩の高さまであげて固定しようとしたときに、どちらかの腕が自然と降りていってしまう時や、そもそも片腕があがらないときには、脳梗塞の前兆症状である可能性あることがわかる。

トークでは、話をしているときに、呂律が回らない。もしくは自分で口にしたいと思う言葉がなぜか出てこないときにも、注意喚起になる。

タイムは、病院搬送後の処置のために、症状が起き始めた時刻を覚えておくことが重要なためである。

脳は莫大な酸素を消費する臓器であり、部位から死亡した細胞の量を逆算し、障害がどれくらい生じるかの予測につながる。

脳卒中の初期症状は、本格的に動脈が詰まる前触れであり、一定時間(短いと15秒程度であることもあります)がすぎると元に戻るので、安心してしまい、病院に行かない患者が一定数いる。

 

そしてこの不気味な前触れの後にやってくる本格的な脳梗塞は、より大きな衝撃を脳に与えるため、場合によっては死亡に至るのである。

 

民俗学的に解釈すると、悪魔に取り憑かれて、黄泉に降るというわけだ。

 

また上にあげたような例だけでなく、不随意運動を伴わない悪魔憑きも存在する。


例えば、脳脊髄液減少症では、脳と脊髄(せきずい)の周りを満たす髄液が少なくなることにより、頭痛・めまい・首の痛み・耳鳴り・視力低下・全身倦怠感などのさまざまな症状が現れる。

古代のある日突然、危険な作業中、狩りや、川での洗濯中、高所、火を扱う仕事や、その他作業中にこれらの障害が発生したら?

それが原因で命を落としたり、重大な事故が発生したら?

当然、それは悪魔の仕業として解釈されるだろう。

さらに、これは、純粋な人間の肉体的疾患だけではない。


地理型の真正病理型中2病では、
恐山のイタコ、古代ローマのシビュラがその存在を挙げられる。

イタリア人考古学者ハーディー・プファンツ氏ら火山学者で構成される研究チームが、学術誌「アーキオロジカル・アンド・アンソロポロジカル・サイエンシズ」で記した論文によると、トルコのプルート洞窟では、CO2濃度が洞窟の入り口では4~53%、内部では91%に達もしていたらしい。


洞窟近辺には、周囲には観衆のために作られたと思われる劇場のベンチがあった証拠も見つかっていて、これは宗教儀式を行う施設であったと考えられるそうだ。


これらは、恐山のイタコと同じで、火山性の地中から噴き出すガスにより、正気を失った人間を、神がかり、演劇としてとして受容していた可能性を示唆している。

古代の巫女なら、介抱するフリして、性暴力など、さもありである。
むしろ積極的に、女性を連れて行き、デートレイプしていた可能性すらある。

 

こういった最新の研究からは地理型の真正病理型中2病という枠組みで、レイラインの実在の可能性が示唆されるだろう。

これはまさに、古代ローマ人の言うゲニウス・ロキだ。


しかしながら、注意しなければならないのは、これらは、単一に原因を求めるのがいささか困難である、という点である。


というのも現在私たちが知る悪魔憑きのイメージは、学習性病理型悪魔憑きの政治性を引きずるからである。

 

例えば、大仰な言葉遣いは、自身が所属する共同体を構成する異性、同性に対して、プレゼンスを堅持するという目的のもとに生み出された可能性も大きいし、

 

神の力と、悪魔の力なとは相反する概念や、瞳が真紅に染まる、片腕が勝手に動くなどは、脳機能障害でも、電位異常だけでなく先に挙げたTIAのように脳内出血や、眼球障害が関係しているかもしれない、

例えば原虫由来の、旋毛虫症や、トキソプラズマ症は、眼球異常を伴うこともある。
(病ではなく症なので、これもさまざまな病態がある)


しかもこれらは個人差があり、バラエティに富んでいる。


失神であっても睡眠不足、毒、酸素不足、貧血、病気、ウイルス防護、自然現象、政治、薬物。

いくらでも考察は可能だ。

先に見たように、このようなさまざまな力学によって構成された複雑な別の疾患や地理的な要素が組み込まれて肥大化した結果、学習性病理型悪魔憑きのイメージは、時間を経るごとに巨大化していく。


例えば低級な悪魔霊は言葉を喋らず涎を垂らして暴れまわり、高次の霊障は言葉を話して人間と交渉するなどという俗説。
これは、学習性が、真性に対して行ったネガティブキャンペーンであり、自身の立場を補強したいという政治的な意図を見て取れる。

前述したが、演劇は、独自の文化圏経済圏を築くため、悪魔憑きや神がかりは、政治の道具として運用されてきたのだ。

当然、都合の良いように歪みが発生する。


また、単一の症例ではなく、複数人による症例の混同、時系列の変化など、コンタミネーションの要員はいくらでもある。

そして模倣も含まれるがゆえに、どうしてもオリジナルとかけ離れた狭雑要素が発生する。


さらにややこしいことに、イメージが肥大化する過程で、学習性病理型悪魔憑き=政治の振る舞いを、真性病理型悪魔憑きが取り込んでしまうことも考えられる。

また、当然、学習性、真正、両方を兼ね備えたハイブリッド型もあるだろう。


(先に挙げたアンネリーゼ・ミシェルは、病態が悪化するにつれ自分自身の尿を飲んだり、昆虫を食べる行動をとるなど自己損傷に向かう攻撃的症状が見られるようになった、これもハイブリッド型であった可能性がある)

 

 

 


ゆえにそれらは、複雑で一貫性にかける。
古代ローマで、征服した土地の土着信仰を取り込みながら神々の王となったゼウスと同じである。


悪魔憑きは、神がかりであり、同時にエンタメとしての気質を持つものなのだ。

他にもドラキュラや、ヤマタノオロチ、人魂など、名だたる化け物はすべからく現象のキメラである。


ミランコビッチサイクル
太陽の黒点活動
月震
彗星
セントエルモの火
不知火
リンの発火
山火事
オーロラ
ブロッケン現象
こだま
洪水
狂犬病
化学物質過敏症
妄想性パーソナリティ障害、シゾイドパーソナリティ障害、回避性パーソナリティ障害、自己愛性パーソナリティ障害、同一化、

悪魔憑きや神がかりについて論じる際、私たちはこれらを全てを視座に入れたうえで、ホリスティックに見なければならない、


先に学習性悪魔憑き=政治について説明したのは、病理、そしてその受容のされ方があまりにも多岐にわたるためであり、混同を避けられないからである。

ゆえに、最初から、混ぜ物として理解する必要がある。

 

これは闇の中で痕跡と破片を集め、その結晶の輪郭線を探るような、極めて繊細な作業だ。


とはいえ、悪魔憑きが、脳疾患などであるという実質的な証拠は未だ見つかっていない。

ゆえに、悪魔憑きの患者が出たら、先端医療を行える医療組織に接続することが、何よりも重要である。
でなければ、悪魔憑きは悪魔憑きのまま、社会に処理されてしまうからだ。

 

後進国や古代社会で、祈祷師が悪魔祓いを行うのは、呪術的儀式ではない。

これは科学的知見ではなく、経験則から来た医療行為の一環なのである。

 


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真性病理型悪魔憑きが、前述の病理の複合化されたシンボルであることを理解したところでしかし。

悪魔憑きの長い歴史の中で複雑に絡み合った全容を理解したことにはならない。


理解病理だけではなく、ヒトの政治としての悪魔憑きを理解する必要がある。

 

では、人が意図的に行う劇場型政治としての悪魔憑きの、

その起源とは一体、何か?


悪魔憑き=エクソシズムの語源、ギリシア語の exorkismos は、「厳かに問いかけること、または勧告すること」といった意味の名詞である。

これは、悪魔の概念史の研究などで知られる宗教史家ジェフリー・バートン・ラッセルが、『ルシファー 中世の悪魔』 野村美紀子訳、「悪霊を追い払うこと」で指摘している。

 

動詞 exorkizo は「誓言」を意味する horkos の派生語であり、によれば、元はキリスト教ではなくギリシアの異教で用いられていた。この言葉は「衷心より真剣に請う、祈る」といった意味で用いられ、その本義は「誰かに向けて厳かに切実に呼びかける」であるという。


どうやらもともと「悪霊を追い出す」といった意味は含まれておらず、非キリスト教徒のギリシア人にとっても、初期のキリスト教徒にとっても、悪しきものに対してだけでなく善きものに対する呼びかけにも適用しうる言葉であったらしい。

キリスト教においては、エクソシズムはキリストの名の下に悪霊を追い払うという形のキリストへの間接的な祈りであり、3世紀頃までには明確に「高位の霊的権威の力を借りて人や物から有害な霊を追い出す儀式」を意味するようになったという。

後半になると言葉の意味は明らかに、セレモニー、儀式、演劇となって政治化しているのがわかる。

(広義の意味ではこれも、認知行動療法という治療である)

 

では、演劇の起源は何か?


日本大百科全書(ニッポニカ) にて、演劇の項目を紐解くと、こう描かれている。


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ことばと身ぶりによって表現される芸術の一形態で、人間社会においてつねに、どこにでも存在する文化の一様式でもある。日本で「演劇」の語が用いられたのは明治以後のことで、それまでは「芝居」であった。平安時代から中世にかけて栄えた延年(えんねん)舞曲が、寺院の庭の芝生に座って見たものだからである。「劇」の文字も使われず、当時は中国に倣って「戯」が用いられ、劇場も「戯場」といわれた。西洋では、英語でtheatre(シアター)、フランス語でthéâtre(テアトル)、ドイツ語でTheater(テアター)などであるが、これも古代ギリシア劇において「見る場所」を意味するtheatron(テアトロン)からおこった。これらの語源には、演劇の本質としての観客の重要性が暗示されている。
河竹登志夫

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ことばと身ぶりによって表現される芸術の一形態で、、、

の一文から読み取れるように、日常生活における有用な行動であれば、他人の行動の模倣は、特別視はされない。


例えば、子供のときにご飯を食べるときのスプーンの使い方や、顔の洗い方を教わるのは教育であり、逆に教える側もまた、それを当然のことと考える。これは日常の営為であるケの文化であり、非日常のハレの文化ではない。

 

つまり演劇が演劇と認識されら特別視の条件とは、観客に起因するのだ。
そして、見られる事なしには、演劇も、政治も、成り立たないのである。


演劇の本質は、行動を見られる事であり、それはセレモニーとしての、儀式的なものであり、他者に観察されることにより、行為の意味が変わる。

スプーンを使うにしても、周りから注視されながら、音を立てずにぐにゃぐにゃ曲げたり折ったりすれば、それは超能力やシャーマニズムになるのと同じだ。

 

では、誰に見られるのかというと、観客、あるいは、仮想の観客である。

 

ここで何が生じているのかというと、観客と演者の分断である。

悪魔憑きを演劇と捉えると、両者が分断されることにより、演者と観客の階級が、ハレとケが、より先鋭化されていく。


とくに時代が降るにつれ、効率的な舞台装置によって、その権威化、観客と役者の分断化は、よりラディカルに押し進められていくこととなる。これも前述の、


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「芝居」の語源は、平安時代から中世にかけて栄えた延年(えんねん)舞曲が、寺院の庭の芝生に座って見たものであるとされている。

「劇」の文字も使われず、当時は中国に倣って「戯」が用いられ、劇場も「戯場」といわれた。西洋では、英語でtheatre(シアター)、フランス語でthéâtre(テアトル)、ドイツ語でTheater(テアター)などであるが、これも古代ギリシア劇において「見る場所」を意味するtheatron(テアトロン)からおこったという。

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という一文から伺えるだろう。


つまり、見るものと見られるものとの空間的、距離的な分断が、状況的分断が、演劇の言葉の語源になるほどに、両者は一体化していたのだ。


そして、

 

これらの舞台や道具を用いることで、

演劇、儀式、悪魔憑き、神がかりは、集団を驚かせる、笑わせる、そして、集団の身体を同期させた。

そして共通の体験は、共通の価値観や、感情を生む。
この身体同期性により、宗教儀礼は、社会を安定化させる。


宗教儀礼とは、良い意味でも悪い意味でも、権威化されて、民衆を支配するための「政治」の道具として機能してきた。共同体を維持するために重要なファクターとして、病理は利用されたのだ。


繰り返して強調するが、神がかりと悪魔憑きは同型である。受容のされ方により政治的に、両者は分類、呼称、区別されているに過ぎない。

ここが、混同の原因である。
宗教は、聖と邪ではなく、政治と病理に分割されて解釈されるのが望ましい。


注意しなければならないのは、この病理の政治利用は、一方的な関係、片利共生ではなく、相互利益で相利共生あったという点だ。

つまり病人本人から見ても、有用で利益のもたらすロジックなのである。


というのもこれらはコミュニティの中で、精神障害者を摩擦なく内包するシステムであるからである。

もちろん、貧困層への最配分という側面もあっただろう。


食事など、生活のリソースが現代以上に「限られていた」時代に、病気の個体が集団から仲間はずれにされたらどうなるかは、言を俟たない話である。

しかし、時代が進むにつれて(農耕の開始などにより)社会が安定化し、富が一部の人間に集約化していくと、


劇場型政治の権威化もまた、より大きなものに歪められていった。


本来病理を患っていないにも関わらず、利益目的から、その行動を再現しようとするものが現れてくるのである。

これが、学術性病理型悪魔憑きであると本論は指摘したい。


個体が、自身の所属する集団をに対して、優位性や権威化を要求する際、笑わせたり驚かせたりするエンタメという形で、病理は利用された。

 

悪魔憑きにある、仰々しい言葉使いや態度は、

集団の中で優位性を示したいという恣意的なものなのである。
演劇と悪魔憑きとの差異は、行為者と観測者が分断されているかいないかの違いでしかない。


つまり悪魔憑き、神がかりは、共にポジショントークなのである。


ゆえに、条件いかんによっては、狂人扱いされてしまう。


近代に至るとミュンヒハウゼン症候群(1951年にイギリスの内科医、リチャード・アッシャーによって発見され、「ほら吹き男爵」の異名を持ったドイツの貴族、ミュンヒハウゼン男爵にちなんで命名された)などと、評じられるのも頷ける話であろう。

 

ちなみに、演技を伴うこれらの宗教儀式は、世界中、枚挙いとまなく挙げられる。

演劇は、神がかりであり、それは神下ろしであり、仮面をつけて踊る能、舞踏、神事、ジャワ、アフリカの仮面舞踏、ハロウィンの仮装、インドネシア
バリ島のランダ、ジャワ、インドブータン寺院、仮面舞踏祭、
などなど、まさに、百花繚乱だ。

、、、「人間社会においてつねに、どこにでも存在する文化の一様式でもある。」


日本大百科全書のこの一文の通りである。


そして、これらは現代になると、アニメや映画、ゲームなどを通して、より資本に結びついた形で、刺激の強いエンタメとして処理される。


例えば現代的なコンテンツとして挙げるならば、その名もズバリの「呪術廻戦」や、「チェンソーマン」「シャーマンキング」「Bleach」「仮面ライダー」などがあるだろう。


ベルトを腰に巻いて

「変身っ!」

などは、まさに神がかりそのものだ。
(無論、その後の暴れっぷりは悪魔の所業である)


ちなみに本稿執筆時、現在放送中の仮面ライダーギーツのパワーアップ形態であるギーツⅣは狐憑きがモチーフである。


そのため、バイザー=目が、狂気を表現するために渦巻き模様になっている。

というのも稲荷=キツネの総元締めは、ヒンドゥー教におけるダキニ天であり、本場インドではジャッカルを連れているからだ。


シルクロードを通って日本に輸入された神だが、当然日本にジャッカルはいないため狐とされ、白い神の使いは、狂気のイメージを持つようになった。

ゆえに、仮面ライダーギーツは悪魔憑きである。

 

そして、こうした演劇、同じ作品を見た者同士が、紐帯し群れを作ると、オタクや、同担推し、信者というグループが形成され、独自の文化圏、経済圏を生み出している。


繰り返すが、超自然的なものに対する祈りは、共同体の存続に寄与するのだ。
演劇や、身体の同調、なりきり遊びがいかにヒューマニティー、文化に寄与しているか、現代のオタク文化圏の隆盛やジャーゴンを見れば首肯できるだろう。

そう。
悪魔憑きは、古今東西を問わず、AI社会の現代になっても再生産され続ける、サピエンスが持つエンタメの「穀物」なのである。

いわゆる宗教儀式は、伝統と権威で構成されるように思われるが、
エンタメである演劇や
悪魔憑きとも、等号符で結ぶことの可能な存在なのだ。

 


◆◇◆

4、

では、この学習性病理型悪魔憑きについて、現代の進化心理学と軸を合わせて、確認してみよう。


これは、前述した共同体の紐帯を強化するための悪魔憑き、という枠組みではなく、個人の生存を目的とした行動の分析である。

前述した通り、学術性病理型悪魔憑きは集団の中で自己の優位性や権威化を、「自身の所属する集団を、笑わせたり驚かせたりする演技を通して」、実現しようとする行動のことである。


大仰で自信過剰とも取れる発言も、グループ内での立場を強化するために、自身の優位を宣言するための、いわば、発情期の鳴き声強化である。

霊長類の性アピールのための挑発機能において、

カニクイザルやニホンザルは、発情期になると、顔や尻、陰のうなどが鮮やかに赤く色づき、若いメスの場合は、生殖器官周辺が膨脹することもあるのはよく知られている。

チンパンジーボノボでは発情期の性器の肥大(性皮腫脹)、発情期のメスは、性器を肥大化して、オスを誘惑し、乳房も人間と同じように発達する。


しかしサピエンスの場合は、特に性成熟における陰部の発色や、乳房の発達が、被服という文化により視認しずらい。


このため、このような言語によるグルーミングが、世代を経るごとにより文化としてだけでなく遺伝子レベルで強化されてきたであろうことは想像に固くない。


そしてこれらは、遺伝子の設計に基づく純粋な生理現象に由来する社会性行動であるゆえに。

共同体の中で力を持たない地位の低いもの、地位の高いもの、その力学に関係なく生じる。


そしてカオスは、異質なものを排除しようとする力学により、解消される。


というのも共同体の中での振る舞いが権威に紐づいておらず、単独で行われるなら、それは共同体の瓦解を意味するからだ。

似たもの同士が自己組織化の過程で集まり、その中で数の多い方が、あるいは環境によっては少ない方が、生き残る。


これが、文化や、宗教の起源である。


悪魔憑きでも神がかりでも、真正でも、学習性でも関係なく有するコミカルなイメージは、異常行動をとった個体が、集団の中での優位性の獲得に失敗したことも、原因の一つとして考えられる。

 

友達がたくさんいる個体は、病気になると、巫女や、宗教指導者になり、

仲間はずれにされると悪魔憑きとして解釈される。


しかしこれは、体調不良を嘲笑されるという生やさしい言葉で片付けられるものではないだろう。


集団の中での優位性の獲得に失敗が、笑いとしての形を取るのは近代以降であり、それ以前は、イジメ、殺害といった極めて野蛮な形で、エンタメは行われてきた(八つ裂き、火炙り、ギロチンの公開処刑、打首、獄門、釜茹で地獄)

 

ちなみに、歴史的に残る学習性病理型悪魔憑きの失敗例としては、

百年戦争期のフランス国王シャルル6世の時代に起こった「燃える人の舞踏会」("Le Bal des ardents")という事件がある。


王妃イザボー・ド・バヴィエールは侍女の一人の婚礼を祝して1393年1月28日に大規模な仮装舞踏会を開催した。シャルル6世と5人の貴族は亜麻と松脂で体を覆い、毛むくじゃらの森の野蛮人に扮して互いを鎖で繋いで踊る "Bal des sauvages" (野蛮人の踊り)をしようとしたが、たいまつに近づきすぎて衣裳が燃え上がり、シャルル6世は助かったものの4人が焼死するという事件になった。シャルル6世はすでにイングランド軍に対する敗戦でショックを受けていたが、この後急速に精神を病むようになったという。


社会性のサルの王が、宗教儀式に失敗しな群れの支持を失った、、、というのが、概略だ。


他者を傷つける行為が娯楽的であることから、私たちは目をつぶってはならない。
そもそもイジメはなぜ、古代から連綿と続く普遍的な人間の営為であり、誤解を恐れずに言えば、


「イジメ=喜びになる」のかというと、

「信用できないやつを排除し、自分達を生き残らさせる確率を上げる」

機能的側面があるからに他ならない。

 

繰り返すが、悪魔憑きは神下ろしであり、演劇であり、ポジショントークとしての側面があった。

そしてそれは、集団生活を行う中で人間が自己保存や、生殖行動をより優位に進めるためのツールとして、利用してきた、されてきた、

という事である。

悪魔の力も、神の力も、人は等しく、己が遺伝子を残すために作り出し、利用してきた、ある種の結晶化された政治行為なのだ。


とはいえ、これは、霊長類一般の常識から見れば極めて異質で、驚くべきことである。

例えば、意外に思われるかもしれないがゴリラに友情は存在しない。


というのもゴリラはシルバーバックと呼ばれるオスを中心にしたハーレム形成するが、これは繁殖を目的とした集団であるからだ。

この特性ゆえに、ゴリラの群れは森の中でほかの群れと出会うとコミュニケーションは取らない。

ただただシンプルに己が群れの生存をかけて争い戦うだけである。

そしてハーレムを維持できないオスの元からはメスは去る、

しかし、人間はそうではない、学校、家庭、会社、恋人、親子と、群れを簡単に移し替える。
そして、あまつさえその群れの目的、その役割にあった行動をロールを自ら自然と取る。

ユヴァル・ノア・ハラリがサピエンス全史で指摘したように、サピエンスは、言葉を用いる。
そして、ウソや概念を共有できることで、群れを行き来できる。

であるがゆえ、このようなパラドックスな現象が生じる。

 

つまり、生得的に人間は悪魔憑きを愉しむための回路を有しており、

それは、人間が進化の過程で身につけたものなのであり、

その間隙を縫うように形作られたのが、


「病理現象に由来する社会性行動」


である。

これこそが、悪魔憑きや神がかりなど、宗教の根本的な正体なのだ。


では、これらは、なぜ人間社会で受容されて、再生産され続けるのか。

その理由は、前述した通り、共同体の管理維持において有用だからである。


本稿では先ほどゴリラの例を挙げたかが、私たちは生殖目的で集まった群れ同士の闘争を、野蛮と笑うことは、全くできない。


そもそも人権や個人の生命の尊重などという概念は、ここ数十年に台頭してきた比較的新しい概念であり、それまでは個人を損耗し、社会を持続させるというのが、人類の通奏低音だったからである。


ジャレド・ダイアモンドが「昨日までの世界」で記しているように、人類史の中では概ね、己の優位性を堅持できない者は、殺害されてしまう。


舐められたら終わり、の世界のほうが、人類史では長かった。
戦争に負けたら男性は皆殺しにされ、
女性は奴隷化されて子作り、

それが人類史のデフォルト・スタンダードなのである。(このことは遺伝子解析で、過去の男性の大量死、おそらく原因は戦争という直接的な証拠がスタンフォード大学遺伝学教授のマルクス・フェルドマンにより、すでに発見されている)

 

暴力はエンタメであり、悪魔憑きはそれによって、共同体が崩壊するのを防ぐためのエクスキューズとして機能した。


非定型発達や病理を社会的にエンターテイメントとして組み込み、あるいは搾取して群れを維持する。

それは、人類が長い歴史の中で巧みに生み出してきたある種の「企み」であり、
悪魔憑きは、社会を安定化させる可塑剤アモルファスなのだ。

 

 ◆◇◆

5.

実を言うと、宗教=精神障害という概念は、昔からある。

この主張において、特に有名なのはヤスパースフロイトであろう。

フロイトの著作、

「人間モーセ一神教
「トーテムとタブー」

によると、その宗教論は、精神分析の成果を応用したものだ。

精神分析は個人の心理を対象にしている点で個人心理学といえるが、宗教は個人を超えた人間集団の現象なので、フロイトはそれを集団心理学の問題だと言っている。


そのうえで、個人心理学と集団心理学は同じ基盤に立っているとする。その基盤とは、無意識の衝動を中心にした精神的なダイナミクスのことをいう。その無意識的な衝動が宗教の源泉だというのがフロイトの基本的な考えである。


そういったわけだから、「宗教的現象は、個人の神経症的症候を雛形にしてこそ理解できる」(「人間モーセ一神教吉田正己訳)


そう、ここで記されているように、「無意識的な衝動」こそが、宗教の源泉である。

そして、この無意識的な衝動を起こすのが、

人間の環境によって決定される遺伝的なソフトウェアのこと、

それから、環境要因による行動最適化、自己組織化の結果であること、

というのが、本稿の骨子だ。


フロイトも宗教を、はじめは共同体の成員を結びつけるものとして考えた。


が、次第に人類全体の関心事ととらえるようになった。そうすることで、宗教が人種間の争いを促進することがないようにしたいと思ったのだろう。

いわば、社会の糊としての宗教を彼は意識していた。

 

しかし、現実を見れば、全ての宗教は人殺しをしている。

これは遺伝子の働きや、武器の殺傷能力の洗練化まで、視点を広げなかった事が原因ではないかと思われる。


小集団では接着剤として機能するが、大集団では、戦争の火種になる。

ダンバー数(霊長類の群れの数から逆算した、生物学的に人間が認識可能な数の上限のこと)

のように、遺伝学的に人間の認知に限界がある事が、戦争や、民族虐殺といった「大げんか」の原因となるのではないか?


また、フロイトと同時代のフランスの社会学エミール・デュルケームは、宗教を論じる際、

これは聖と俗の二分法こそが宗教の中心的特色であると考え、聖なるものは特定集団の関心、とりわけ統一性を表象するものであり、これはその集団が共有する聖なる象徴、トーテムに具体的にあらわれているとした。

他方、俗なるものは日頃の個人の関心事に関わるものであり、聖俗二元論は善悪の区分と同一ではないとした。

聖なるものは善であることもあれば悪にもなりうるものであり、俗なるものもどちらにもなりうる、、、というのがデュルケームの理論だ。


これは、非常に本稿と近しい見解であるが、この論理は人間の認知におけるシンボリズムに終始しており、病理に関する知見がかけていた。そこが本稿と異なる点である。

 

また、フレイザー金枝篇にて、人類の知的発展が呪術から宗教へ、宗教から科学へという進化的過程を経ることを主張した。


これも、本稿の主張とかぶるが、呪術の発生について、病理という認識ではない。


宗教や悪魔、神について論じるにあたり聖と俗は、分類法として不適切であり、病理と政治の二元論に分類するべきである。というのが本稿の主張である。


また、宗教の起源は、知的発達が呪術を生み出し、それが宗教に発展したのではなく、

まず悪魔憑きという病理に対し、治療を行うという極めて実利的、実践的な観点が、

聖と邪の概念を生み出したこと、そして

 

他者がその治療行為を政治の道具として利用することで、宗教が生まれ、社会が安定化し、化学が発達したと、本論は、主張する。

(悪魔から生まれた錬金術=化学を用いて、悪魔を解剖するというウロボロスが本稿である)

 

 

 

 

ファンタジーとサイエンスの幸せな融合マリアージュ、ゆえに私たちはこれを、伝承病理学と名づけた。

そう、化学とは、闇の中で生まれた魔術の子なのだ。

 

 ◆◇◆


2023年10月現在、イスラエルでは、争いが起きている。
錯綜する情報により実態は不明瞭で、泥沼化していることしか、筆者には理解できない。

これは、イスラエルという土地のイメージからも、古代史における暴力が、より拡張された形で現代に蘇った状態であると解釈できるであろう。

 

ならば、前述したように、古代の宗教や演劇、そして悪魔憑きによって、人類を結び、世界の崩壊を免れさせることもまた、可能なのではないか?


この論考が、その一助になれば幸いである。


悪魔憑きとは、どんな時でも、誰もが持っている、人間に元から備わった前向きな力を思い出させてくれる存在なのだ。