中2病=悪魔憑きは実在する

ーー局所性ジストマと宗教の起源

世界伝承病理学研究会著

 

♦︎

1.


貴方は中二病と言う言葉をご存じだろうか?


知らない方のために一言で説明すると、これは「悪魔憑き」である。


より細密に述べると、悪魔や闇、神、呪いなどという単語の含まれる仰々しい言葉遣いをしながら、自分ではない、別な人格が自分の中に存在する、あるいは、特別な力を与えられていると思い込んでいる行動、、、

 

中2病は、そんな悪魔憑きとしての振る舞いをする、思春期の若者のことを総称する言葉である。

まあ、闇夜に溶けるピカレスクの美学だと思ってくれれば良い。


口さがない人であれば、これをミュンヒハウゼン症候群(1951年にイギリスの内科医、リチャード・アッシャーによって発見され、「ほら吹き男爵」の異名を持ったドイツの貴族、ミュンヒハウゼン男爵にちなんで命名された)など、と評じるかもしれない。


吉田兼好、曰く、
狂人の真似とて大路を走らばこれまた狂人なり、
徒然草85段)


というわけだ。


ところがこの言葉が、悪魔憑きとしての意味合いを持つようになったのは、(筆者自身の経験によるが)ここ20年ほどである。

というのも調べみると中2病と言う単語の起源は意外にも古く、30年ほど前までに遡る。

オタク文化研究会 『オタク用語の基礎知識』マガジン・ファイブによると、

時代中二病という語の発祥は、1990年代末にラジオ番組『伊集院光のUP'S 深夜の馬鹿力』で生まれたらしい、


当初は、13から14歳ごろ程度に表出する思春期特有の反抗精神を指し示す言葉として扱われたが、次第に、その意味合いは変わっていった。


概ね2005年ごろから、2ちゃんねるまとめブログなどを通すことにより、前述の悪魔や神といった霊的な能力の発露や、多重人格的言動をとる、中学生の意味合いがコピペにより補強されていった、、、とされている。

2012年には、「中2病でも恋がしたい」という京都アニメーション発のノベル作品(京都アニメーション自己資本)がアニメ化したことにより、

この悪魔憑きとしての中2病のイメージはさらに肥大化されて、おもしろおかしく人口に膾炙されるようになったのは記憶に新しい、


つまり中2病という言葉は、時代と共にその意味合いを変遷させてきたのである。


とはいえ、これは混乱を招く表現だ。

よって本稿では名づけられた当初の意味合いの中2病、反抗期的な行動を

 

「反抗型中2病」

 

後述の悪魔憑きとしての振る舞いを伴う中2病を

 

「病理型中2病」

と、便宜的に2種に分類する。


そして本稿で中2病と記す際、後者の病理型中2病の意味を指すものとさせていただく。


本稿ではこの、病理型中2病をさらに細密に分析し、いくつかの特徴によって分類しつつ、包括的にその解説をする。

つまり、


1、中2病という言葉の起源、概念

2、それを使用する側の心理、

そして

3、思春期の子供が、多重人格や、特権的階級や力を持つように振る舞う病理としての現象

4、その病理を観測する他者の存在、それに伴う相対的な社会性の特異的構築=宗教の集団

並びに


5、その歴史的変遷

について扱う。

 

まず初めに、この中2病=病理型中2病という言葉の持つ意味合いが、2005年代に、2ちゃんねるなど匿名掲示板で発見された訳ではないことを、述べる。

 

先にも述べたように古くからは、仰々しいコミークスな言動をするものは「悪魔憑き」「神がかり」「シャーマニズム」などとして、社会の中で受容されてきた。


やがて時代が下り近代に至ると、それはドンキホーテや、古典落語の七段目などのように「文学」や「風刺」として、処理されるようになる。

 

そして現代に至りついにそれは、ミュンヒハウゼン症候群、「精神病」などとも揶揄されるようになる。

つまり、中2病という言葉は、第二次世界大戦中、国内において、

ハンドルという言葉が、
運転円把と言い換えられたように、
(敵性言語禁止のため)

 

宗教から文学、そして精神疾患

抱える概念を変容させながら、人類史を渡り歩いてきた、病理とその症例を指し示す言葉なのである。

 

換言するなら、ある現象の社会的に受容のされ方が、時代と共に、明滅しながら変遷してきた、ということなのだ。

本稿では、この軸の延長として、新しい概念、

純粋に肉体に器質的な変異を伴う「病理」としての中2病を、論じる。

 

前述したようにこれまで、近代以降では、文学や精神疾患として、中2病は喜劇的な扱いをされてきた。

「病」という表現こそ含むが、実際に治療の必要とされる医学的な意味での病気とは無関係である、、、演技である、

と、されてきたからだ。

しかし、エジソンが晩年オカルトに傾倒したように、発達した科学は魔術と区別がつかない。

中2病、その存在は最新の研究によって徐々にその輪郭を顕にしてきたからである、、、、

 


「くっ、、、俺の右手の悪魔が暴れる!」

 

 

 

♦︎


2、

ではここで軽く、病理的中2病=悪魔憑きについて、軽くおさらいしておこう。

先ほど述べたように、中2病は、自分ではない、別な人格が自分の中に存在する、特別な力を与えられていると思い込んでいる行動が特徴とされている。

また、自分の中に潜む別人格や特殊な力は、自分の意思とは異なり、そのものが意思を持ち勝手に動き始めるという行動パターンが特徴として現れる。


これらは演劇的に行われることもあれば、まったくの自覚なしに行われることもある。

そこで区別をとるために細分化を行う。


人が意図的に、演技として行われるものを、

学習性病理型中2病、(陰性)

意図なしに純粋な病理現象として生じるものを

真性病理型中2病と(陽性)

区分する。

 

真性病理型中2病は後述するとして、
まず、学習性病理型中2病、(陰性)について記す。

前述したが、中2病にはコミカルなイメージがつきまとう。アニメにもなるように、これらは楽しいエンタメとして、受容されてきたし、現代でもされている。

では人が意図的に行う演劇としての中2病の起源とは一体、何か?

 

日本大百科全書(ニッポニカ) にて、演劇の項目を紐解くと、こう描かれている。

 

 

 

ーーことばと身ぶりによって表現される芸術の一形態で、人間社会においてつねに、どこにでも存在する文化の一様式でもある。日本で「演劇」の語が用いられたのは明治以後のことで、それまでは「芝居」であった。平安時代から中世にかけて栄えた延年(えんねん)舞曲が、寺院の庭の芝生に座って見たものだからである。「劇」の文字も使われず、当時は中国に倣って「戯」が用いられ、劇場も「戯場」といわれた。西洋では、英語でtheatre(シアター)、フランス語でthéâtre(テアトル)、ドイツ語でTheater(テアター)などであるが、これも古代ギリシア劇において「見る場所」を意味するtheatron(テアトロン)からおこった。これらの語源には、演劇の本質としての観客の重要性が暗示されている。
河竹登志夫


ことばと身ぶりによって表現される芸術の一形態で、、、

の一文から読み取れるように、日常生活における有用な行動であれば、他人の行動の模倣は、特別視はされない。


例えば、子供のときにスプーンの使い方や、顔の洗い方を教わるのは教育であり、逆に教える側もまた、それを当然のことと考える。これは日常の営為であるケの文化であり、非日常のハレの文化ではない。

 

つまり特別視の条件とは、観客に起因するのだ。

演劇の本質は、行動を見られる事であり、それはセレモニーとしての、儀式的なものであり、他者に観察されることにより、行為の意味が変わる。

スプーンを使うにしても、周りから注視されながら、音を立てずにぐにゃぐにゃ曲げたり折ったりすれば、それは超能力やシャーマニズムになるのと同じである。

 

では、誰に見られるのかというと、観客、あるいは、仮想の観客である。

そして、ここで起きているのは、観客と演者の分断である。
そして、分断を行うことにより、演者と観客の階級が、ハレとケが、より先鋭化されるのだ。


とくに時代が降るにつれ、効率的な舞台装置によって、その権威化、観客と役者の分断化は、よりラディカルに押し進められていくこととなる。

例えば「芝居」の語源は、平安時代から中世にかけて栄えた延年(えんねん)舞曲が、寺院の庭の芝生に座って見たものであるとされている。

「劇」の文字も使われず、当時は中国に倣って「戯」が用いられ、劇場も「戯場」といわれた。西洋では、英語でtheatre(シアター)、フランス語でthéâtre(テアトル)、ドイツ語でTheater(テアター)などであるが、これも古代ギリシア劇において「見る場所」を意味するtheatron(テアトロン)からおこったという。

つまり、見るものと見られるものとの空間的、距離的な分断が、状況的分断が、その言葉の語源になるほどに、両者は一体化していたのだ。

 

これらの舞台や道具を用いることで、

神がかりは、集団を驚かせる、笑わせる、そして、集団の身体を同期させた。

そして共通の体験は、共通の価値観や、感情を生む。
この身体同期性により、宗教儀礼は、社会を安定化させる。


宗教儀礼とは、良い意味でも悪い意味でも、権威を強化して、民衆を支配するための政治の道具として機能してきた。


そして、繰り返すが、学術性病理型中2病の本質もまた、この演劇なのである。


つまり、思春期の子供が、集団の中で自己の優位性や権威化を、自身の所属する集団を、笑わせたり驚かせたりする演技を通して、実現しようとする行動が、学術性病理型中2病なのだ。


仰々しい言葉使いや、態度は集団の中で優位性を示したいという恣意的なものなのである。
演劇と中2病の違いは、行為者と観測者が分断されているかいないかの違いでしたかない。
つまり、中2病はポジショントークなのである。

 

ちなみに、演技を伴うこれらの宗教儀式は、世界中、枚挙いとまなく挙げられる。

演劇は、神がかりであり、それは神下ろしであり、仮面をつけて踊る能、舞踏、神事、ジャワ、アフリカの仮面舞踏、ハロウィンの仮装、インドネシア
バリ島のランダ、ジャワ、インドブータン寺院、仮面舞踏祭、
などなど、まさに、百花繚乱だ。

、、、「人間社会においてつねに、どこにでも存在する文化の一様式でもある。」


日本大百科全書のこの一文の通りである。


そして、これらは現代になると、アニメや映画、ゲームなどを通してエンタメとして処理される。


例えば現代的なコンテンツとして挙げるならば、その名もズバリの「呪術廻戦」や、「チェンソーマン」「仮面ライダー」「シャーマンキング」などがあるだろう。


ベルトを腰に巻いて

「変身っ!」

などは、まさに神がかりそのものだ。


狐憑きがモチーフである、仮面ライダーギーツⅣは、バイザー=目が、狂気を表現するために渦巻き模様になっている。

ちなみに、稲荷の総元締めは、ヒンドゥー教におけるダキニ天であり、本場
インドではジャッカルを連れている、
シルクロードを通って日本に輸入された神だが、当然日本にジャッカルはいないため、狐と解釈され、白い神の使いは、狂気のイメージを持つようになった、


こうした演劇、同じ作品を見た者同士が、紐帯し群れを作ると、オタクや、同担推し、信者というグループが形成され、独自の文化圏、経済圏を生み出している。


超自然的なものに対する祈りは、
共同体の存続に寄与するのだ。

 

演劇がいかにヒューマニティー、文化に寄与しているか、現代のオタク文化圏の隆盛を見れば理解できるだろう。

そもそも滑稽=コミカルの語源はラテン語のコミークス、つまり喜劇から、来ている。

そう。
中2病は、古今東西を問わず、AI社会の現代になっても再生産され続ける、サピエンスが持つエンタメの「穀物」なのである。

いわゆる宗教儀式は、伝統と権威で構成されるように思われるが、
エンタメである演劇や
中2病とも、等号符で結ぶことの可能な存在なのだ。


しかし、行動の模倣であるということはすなわちオリジナルが存在するということを意味する。

そこで次項では、真性病理型中2病=純粋に肉体的な変異を含む病理について細密に解説する。

 

 

♦︎

 

3、


学習性病理型中2病は、演劇であり、それはポジショントークであることは、先に述べた。

一方で、真性病理型中2病は、私たち自身の意思を伴わない肉体の運動である。

 

まず、ここで何が起きているのか分析すると、すなわち、主体の持続性、自己の意思や、行動の決定権、その一時的な喪失が、生じていることになる。

自己や、それにより生み出された意思は神聖不可侵なものであり、それらは睡眠や失神、飲酒、ドラッグといった外部的な要因がなければ起こり得ないという前提認識がまず存在し、


その結果として、ベルクソンがその著者「笑いについて」で指摘しているとおり、有機的な人間が判断を誤り、機械的な運動をする際、観測者に笑いが生じる。


これもまた中2病に含まれる、観測者由来の笑いの要素である。


ところが、だ。

現代において私たちは、このパラドックス、、、、肉体が自らの意志に反して動くことを既に知り得ている。

例えば、

化学者ルイージ・ガルヴァーニは、死んだカエルの足に電極を刺して、ピクピク動かすことができることを証明した。


人間でも膝蓋腱反射(DTR:Deep Tendon Reflex)では、太い骨格筋につながる腱を、筋肉が緩んだ状態で軽く伸ばしてからハンマーなどで叩くと、一瞬遅れて筋が不随意に収縮する。

これは筋肉が損傷するのを防ぐための反応であり、人体にみられる生理的な反射の代表的なものだ。


ラザロ兆候では、臓器ドネーションなどで麻酔をかけずに脳死患者の開腹手術を行うと、無意識状態にも関わらず、体は痛みを感じ激しく痙攣して暴れ出す、


そもそも心臓の拍動は、不随意筋で構成されているため、自立して動く。

現代化学では、私たち自身の意思を伴わない肉体の運動は、なんらナンセンスなものではない。

 


無論、分裂病や、多重人格もなどといった精神障害も、ミルグラム実験アイヒマンテスト、スタンフォード監獄実験、、、パノプティコン、割窓理論、

人間の「意思」とやらにかかわらずその行動を歪める現象は多々存在しており、それらは全て広義での真正病理型中2病に含まれる。


そもそも我々の意思、主体性の持続、そういったものを素朴に信仰することは、危険だと言わざるを得ない。

 

そもそもこれを読んでいるあなたを構成しているアミノ酸やらタンパク質は常に崩壊し続けて、2年に一回は全身の細胞がまるごと入れ替わるとされているし、


アランナ・コリンズは著書「10%human」で、人間の体重に比して、人間自身の細胞は10%しか存在しておらず、その意思決定や気分は大部分が、私たちの腸内に共生している細菌叢とその代謝産物による化学物質で生成されていることを示している。

 

自由意志の決定権は、0.2秒ほどしか存在せず、意思があって行動しているのではなく、行動を後から意思であると誤認しているに過ぎないと、アメリカの生理学者ベンジャミン・リベットは実験論文「マインドタイム」で発表した。


繰り返すが、肉体の不随意運動は、自然界に普遍的に存在する事象であり、特別なものではない。

ここで言いたいのは、私たちの精神や意志は、行動理由を後付けするためのエクスキューズだという事だ。

 

翻って、身体の不随意運動を細分化して見てみよう。

これには、複数のサブタイプがあることは言を俟たない。

 

地理型、
天候型、
天体運動型、
自然現象型、
遺伝性型、
細菌型、
臓器型、
ウイルス型
植物型、
脳処理型、
細胞型、
民族性、

認知特性、


etc様々な要因が考えられる。

その中で、一番わかりやすい例をあげると、真正病理型中2病気では、

局所性ジストニアの存在が、想定される。

「くっ、、、俺の右手に封印された悪魔が暴れる!」

これは、ジョークでも演技でもなんでもない。

局所性ジストニアは、バイオリニストなど、特定の動きを長期間繰り返した結果、これまで当たり前に行っていた動作ができなくなる病気で、仕事が続けられなくなる要因にもなりうる重篤な症例だ。


どうやら、脳の大脳基底核、大脳皮質、視床、小脳における電位異常によって発生する疾患であるらしいが、個人差が大きく現代でも根本的な治療法が未だ確立されていない。

また、遺伝子変異(一次性ジストニア)と他の病気または薬剤(二次性ジストニア)に分けられる病であり、

あっかんべー

の元にもなったとも考えられる(顔面麻痺も症例に含まれる)。

さらにこの「中2病」には、全身に取り憑く悪魔が複数の場合もあり、

1つの部位(局所性ジストニア
隣接する2つ以上の部位(分節性ジストニア
隣接しない2つ以上の部位(多巣性ジストニア
体幹に加えて2つの異なる部位(全身性ジストニア

などに、分類される。

腕だけでなくのどでも発症すれば、けいれん性発声障害が起きる。

発声を制御する声帯の筋肉が不随意に収縮した結果、話すことができなくなるか、または声がひずむ、ふるえる、かすれる、ささやき声になる、ぎくしゃくする、甲高くなる、途切れる、不明瞭になる。


この条件で患者が痛みを感じれば、それは当然、悪魔の雄叫びになる。

また、この病気は個人差も大きいことを先に述べたが、症候群である可能性も否定できない。
同じ動作を反復するのは、精神疾患の脅迫性障害も発病している可能性がある。

発作で暴れて頭をぶつけ、

結膜下出血などを起こせば、瞳も真紅に染まって、痛みによるデス・ヴォイスで暴れ回る悪魔の完成だ。


その状況で、アンネリーゼ・ミシェル(1975年にカトリック教会の悪魔祓い儀式・エクソシズムを受けたドイツ人女性。この年の翌年、1976年に死亡した、悪魔憑きの肉声が記録テープに現存する)

のように、若い女性なら性被害なども考えられるだろう。
なにせ体の自由が効かないのだ。

(アンネリーゼは生前「今日の我儘な若者たちや、現代におけるカトリック教会の背教的な司祭たちのために、死んで償うこと」について語っていた)


彼女は、発病時16歳前後。
まさに、中2病と重なる。

 

局所性ジストニアの他にも中2病の起源になったと考えられるだろう事象は多数ある。

ハンチントン病もまた、ジストニアと似た不随意運動、行動障害、精神障害を行う。

これも脳の特定の部分である大脳 基底核 や大脳皮質が変性・萎縮してしまうために生じる病だ。

遺伝子解析で、患者の第4染色体に局在している遺伝子(IT15に核酸3個(シトシン・アデニン・グアニン)の繰り返し配列が異常に伸びていることが原因で、発病するとされてる。

トゥレット症候群は、「チック」と呼ばれる特徴的な運動や音声が自分の意志とは関係なく突然現れ、繰り返す症状が1年以上みられる病気だが、
これもとても良く似た行動を取る。


複雑運動チック:飛び跳ねる、キックする、倒れこむ、叩く など
単純音声チック:意味のない「ん」などの音声を発する、鼻を鳴らす、咳払いをする など
複雑音声チック:場にふさわしくない汚い言葉を発する(汚言)、ほかの人が言った言葉を繰り返す(オウム返し) など


といった動作を繰り返すが、注意欠陥・多動性障害や強迫性障害などを合併したり、睡眠障害などの生活リズムが乱れたり、衝動的な行動がみられることもある。


また、ギランバレー症候群でも眼筋麻痺、反射喪失、顔面の筋力低下による表情なくなり能面化、歩けなくなるなどの障害がある。
表情がなくなり、歩けなくなるなど、典型的な憑きものの症例だ。


一過性脳虚血発作(TIA)も、候補の一つとして考えられるだろう。

これはその名の通り一過性の脳虚血によって、短時間のみ神経異常が発生し、おおむね24時間以内に症状が消失する病態である。
症例としても、運動麻痺に失語、半盲、一過性黒内障と、悪魔憑きの症例が一揃いセットになっている。

 


また上にあげたような例だけでなく、不随意運動を伴わない悪魔憑きも存在する。


例えば、脳脊髄液減少症では、脳と脊髄(せきずい)の周りを満たす髄液が少なくなることにより、頭痛・めまい・首の痛み・耳鳴り・視力低下・全身倦怠感などのさまざまな症状が現れる。

古代のある日突然、危険な作業中、狩りや、川での洗濯中、高所、火を扱う仕事や、その他作業中にこれらの障害が発生したら?

それが原因で命を落としたり、重大な事故が発生したら?

当然、それは悪魔の仕業として解釈されるだろう。

さらに、これは、純粋な人間の肉体的疾患だけではない。


地理型の真正病理型中2病では、
恐山のイタコ、古代ローマのシビュラがその存在を挙げられる。

イタリア人考古学者ハーディー・プファンツ氏ら火山学者で構成される研究チームが、学術誌「アーキオロジカル・アンド・アンソロポロジカル・サイエンシズ」で記した論文によると、トルコのプルート洞窟では、CO2濃度が洞窟の入り口では4~53%、内部では91%に達もしていたらしい。


洞窟近辺には、周囲には観衆のために作られたと思われる劇場のベンチがあった証拠も見つかっていて、これは宗教儀式を行う施設であったと考えられるそうだ。

これらは、恐山のイタコと同じで、火山性の地中から噴き出すガスにより、正気を失った人間を、神がかり、演劇としてとして受容していた可能性を示唆している。

古代の巫女なら、介抱するフリして、性暴力など、さもありである。
むしろ積極的に、女性を連れて行き、デート暴行していた可能性すらある。

 

こういった最新の研究からは地理型の真正病理型中2病という枠組みで、レイラインの実在の可能性が示唆されるだろう。

これはまさに、古代ローマ人の言うゲニウス・ロキだ。


しかしながら、注意しなければならないのは、これらは、単一に原因を求めるのがいささか困難である、という点である。


というのも現在私たちが知る中2病のイメージは、学習性病理型中2病のそれを引きずるからである。

例えば、大仰な言葉遣いは、自身が所属する共同体を構成する異性、同性に対して、プレゼンスを堅持するという目的のもとに生み出された可能性も大きいし、

神の力と、悪魔の力なとは相反する概念や、瞳が真紅に染まる、片腕が勝手に動くなどは、脳機能障害でも、電位異常だけでなく先に挙げたTIAのように脳内出血や、眼球障害が関係しているかもしれない、

例えば原虫由来の、旋毛虫症や、トキソプラズマ症は、眼球異常を伴うこともある。
(病ではなく症なので、さまざまな病態がある)


しかもこれらは個人差があり、バラエティに富んでいる。


失神であっても睡眠不足、毒、酸素不足、貧血、病気、ウイルス防護、自然現象、政治、薬物。

いくらでも考察は可能だ。

先に見たように、このようなさまざまな力学によって構成された複雑な別の疾患や地理的な要素が組み込まれて肥大化した結果、学習性病理型中2病のイメージは、時間を経るごとに巨大化していく。


例えば低級な悪魔霊は言葉を喋らず涎を垂らして暴れまわり、高次の霊障は言葉を話して人間と交渉するなどという俗説。
これは、学習性中2病が、真性中2病に対して行ったネガティブキャンペーンであり、自身の立場を補強したいという政治的な意図を見て取れる。

前述したが、演劇は、独自の文化圏経済圏を築くため、悪魔憑きや神がかりは、政治の道具として運用されてきたのだ。

当然、都合の良いように歪みが発生する。


また、単一の症例ではなく、複数人による症例の混同、時系列の変化など、コンタミネーションの要員はいくらでもある。

そして模倣も含まれるがゆえに、どうしてもオリジナルとかけ離れた狭雑要素が発生する。


さらにややこしいことに、イメージが肥大化する過程で、学習性病理型中2病の振る舞いを、真性病理型中2病が取り込んでしまうことも考えられる。

また、当然、学習性、真正、両方を兼ね備えたハイブリッド型もあるだろう。


(先に挙げたアンネリーゼ・ミシェルは、病態が悪化するにつれ自分自身の尿を飲んだり、昆虫を食べる行動をとるなど自己損傷に向かう攻撃的症状が見られるようになった、これもハイブリッド型であった可能性がある)

 

 

 


ゆえにそれらは、複雑で一貫性にかける。
古代ローマで、征服した土地の土着信仰を取り込みながら神々の王となったゼウスと同じである。


中2病は、神がかりであり、同時に悪魔たちの王としての気質を持つものなのだ。

他にもドラキュラや、ヤマタノオロチ、人魂など、名だたる化け物はすべからく現象のキメラである。


ミランコビッチサイクル
セントエルモの火
不知火
リンの発火
山火事
オーロラ
ブロッケン現象
こだま
洪水
狂犬病
化学物質過敏
妄想性パーソナリティ障害、シゾイドパーソナリティ障害、回避性パーソナリティ障害

中2病について論じる際、私たちはこれらを全てを視座に入れたうえで、ホリスティックに見なければならない、


これは闇の中で痕跡と破片を集め、その結晶の輪郭線を探るような、特別で繊細な作業だ。

 

4、

真正病理型中2病の概要が理解できた上で、現代の学習性病理型中2病について、再び、確認してみよう。

ここからは、進化心理学と軸を合わせる。


前述した通り、学術性病理型中2病は、思春期の子供が、集団の中で自己の優位性や権威化を、「自身の所属する集団を、笑わせたり驚かせたりする演技を通して」、実現しようとする行動のことである。


そして中2、すなわち、13.14才といえば、一般的に体重、成長の加速する年齢を指し示す。つまり第二次性徴期だ。

学習性病理型中2病は、なぜこの時期に特に多く生じるのかというと、個体が成長期に入り、ホルモンバランスの乱れ、自己の存在が不安定化するからである。

それらの体調不良は、言語化できない不安となって、外部や行動に浮かび上がる。


そして、個体の生存と生殖のため、自らの社会的立場をより強固に構築することを目論む。

ついにそれは、自身が所属する共同体を構成する異性、同性に対して、プレゼンスを堅持するという指向で、個人の外面へと表出することになる。


早い話が、中2病は、性アピールのため、芝居を通して、安易に力を示すポジショントークや、恣意行為なのである。

 

大仰で自信過剰とも取れる発言も、グループ内での立場を強化するために、自身の優位を宣言するための、いわば、発情期の鳴き声強化である。

また学習性病理型中2病が闇の力を好むのも、こういった事例から紐解くことが可能である。

例えば、ドナ・ハートとロバート・サスマンは『ヒトは食べられて進化した』でヒトは長い間、捕食者ではなくてむしろ被食者であり、捕食を回避することが知能発達の選択圧になったと主張している。人類学者パスカル・ボイヤーは暗闇に対する恐怖、幽霊の錯覚のような認知的錯誤の一部が捕食者回避によって発達したのではないかと考えている。


つまり中2病は、昼行性の霊長類であるサピエンスが、夜の闇、そして見えないものを恐れるという生物学的習性を裏側から照らして、戦略的に使った「力の誇示」である。

野生下の、昼行性のサルの群れの中で、夜に番をする個体は、非常に有用だからだ。

 


ちなみに、この夜行型は真正病理型中2病と解釈すると、解糖系の中間代謝産物による細胞の生化学震動や、光過敏症などが原因による体内時計の個体差のズレではないかと考えられる。


また霊長類の性アピールのための挑発機能において、

カニクイザルやニホンザルは、発情期になると、顔や尻、陰のうなどが鮮やかに赤く色づき、若いメスの場合は、生殖器官周辺が膨脹することもあるのはよく知られている。

チンパンジーボノボでは発情期の性器の肥大(性皮腫脹)、発情期のメスは、性器を肥大化して、オスを誘惑し、乳房も人間と同じように発達する。

しかしサピエンスの場合は、特に性成熟における陰部の発色や、乳房の発達が、被服という文化により視認しずらい。

このため、このような言語によるグルーミングが、世代を経るごとにより文化としてだけでなく遺伝子レベルで強化されてきたであろうことは想像に固くない。

無論、これは匂いを使った性アピールも含まれており、栗の花やらイカ臭いとか、ラクトンc11.ラクトンc10などが挙げられるだろう。

マンダムから発売されたデオコなどはまさに男を惑わす色香である。

Orto Parisi(オルトパリージ)なども、セミナリス|精子 という香水で、ブルゲオナールという分子を使っている。

精子はこの香りに導かれて卵子へと誘われるとされる。

 

また、香水や、制汗スプレーを使い始めたり、生理周期とニキビを隠すために化粧やネイルを始める、妊娠を避けるのも、13.14才を迎えるこの頃である。


とくに女性において、爪は生理による貧血症状が出ると色が悪くなる。

なぜならこの色を左右するのは血流の良さであり、健康で、異性受けするピンク色の爪は、爪の下を流れる血液の色が透けて見えている色であるからだ。

毛細血管の集中する部位、顔や爪は、とくに貧血で血流が悪くなることで紫っぽく色が悪くなってしまう。さらに鉄分が不足すると爪は反り返る。

そうなると優秀なオスは獲得できない。

生理で、血液を毎月大量に失う女性は、それをオープンにすることで集団の中での個体の不利益、

性暴力や、イジメなど個体の生存不利に通じる。そのため、個人の体調を集団で秘匿する文化が、時間をかけて自己組織化されていったのだろう。


ゆえにネイルや、化粧などといった文化は、中2病と軸を一にする文化である。

(ちなみに化粧の起源について、真正病理型中2病とすると、全身性エリテマトーデスの可能性、狼瘡における両側頬部にわたる蝶形紅斑の可能性が高い、

この病気は男女比は女性9に対して男性が1であり、また発症年齢は出産適齢期と重なる20 - 40歳が好発で、エストロゲンなどの女性ホルモンの関与を示唆する報告がある、

原因のひとつとして挙げられるEBウイルスは、先述のキス病、伝染性単核症なども引き起こすとされる)


そしてこれらは、遺伝子の設計に基づく純粋な生理現象に由来する社会性行動であるゆえに。

共同体の中で力を持たない地位の低いもの、地位の高いもの、その力学に関係なく生じる。


さらに、ここにコミカルなイメージが外部から上書きされる。

というのも共同体の中での振る舞いが権威に紐づいておらず、単独で行われるなら、それは共同体の瓦解を意味するからだ。

全員がお姫様の白雪姫など、幼稚園児のお遊戯会でしか、お目にかかれないのはそのためだろう。


そしてカオスは、異質なものを排除しようとする力学により、解消される。
似たもの同士が自己組織化の過程で集まり、その中で数の多い方が、あるいは環境によっては少ない方が、生き残る。


これが、文化や、宗教の起源である。


中2病、真正でも、学習性でも関係なく有するコミカルなイメージは、異常行動をとった個体が、集団の中での優位性の獲得に失敗したことも、原因の一つとして考えられる。

 

友達がたくさんいる個体は、中2病になると、巫女や、宗教指導者になり、

仲間はずれにされると悪魔憑きとして解釈される。


しかしこれは、体調不良を嘲笑されるという生やさしい言葉で片付けられるものではないだろう。


集団の中での優位性の獲得に失敗が、笑いとしての形を取るのは近代以降であり、それ以前は、イジメ、殺害といった極めて野蛮な形で、エンタメは行われてきた(八つ裂き、火炙りギロチンの公開処刑


他者を傷つける行為が娯楽的であることから、私たちは目をつぶってはならない。
そもそもイジメはなぜ、古代から連綿と続く普遍的な人間の営為であり、喜びになるのかというと、

「信用できないやつを排除し、自分達を生き残らさせる確率を上げる」

機能的側面があるからに他ならない。


ちなみに、歴史的に残る学習性病理型中2病の失敗例としては、

百年戦争期のフランス国王シャルル6世の時代に起こった「燃える人の舞踏会」("Le Bal des ardents")という事件がある。


王妃イザボー・ド・バヴィエールは侍女の一人の婚礼を祝して1393年1月28日に大規模な仮装舞踏会を開催した。シャルル6世と5人の貴族は亜麻と松脂で体を覆い、毛むくじゃらの森の野蛮人に扮して互いを鎖で繋いで踊る "Bal des sauvages" (野蛮人の踊り)をしようとしたが、たいまつに近づきすぎて衣裳が燃え上がり、シャルル6世は助かったものの4人が焼死するという事件になった。シャルル6世はすでにイングランド軍に対する敗戦でショックを受けていたが、この後急速に精神を病むようになったという。


社会性のサルの王が群れから馬鹿にされて悲しくなってしまった、、、というのが、概略だ。

 

繰り返すが、中2病は、悪魔憑きであり、神下ろしであり、演劇であり、ポジショントークであった。

そしてそれは、集団生活を行う中で人間が自己保存や、生殖行動をより優位に進めるためのツールとして、利用してきた、されてきた、

という事である。

悪魔の力も、神の力も、人は等しく、己が遺伝子を残すために作り出し、利用してきた、ある種の結晶化された政治行為なのだ。


とはいえ、これは、霊長類一般の常識から見れば極めて異質で、驚くべきことである。

例えば、意外に思われるかもしれないがゴリラに友情は存在しない。


というのもゴリラはシルバーバックと呼ばれるオスを中心にしたハーレム形成するが、これは繁殖を目的とした集団であるからだ。

この特性ゆえに、ゴリラの群れは森の中でほかの群れと出会うとコミュニケーションは取らず、シンプルに己が群れの生存をかけて争い戦う。

そしてハーレムを維持できないオスの元からはメスは去る、

しかし、人間はそうではない、学校、家庭、会社、趣味サークル、恋人、親子と、群れを簡単に移し替える。
そして、あまつさえその群れの目的、その役割にあった行動をロールを自ら自然と取る。

ユヴァル・ノア・ハラリがサピエンス全史で指摘したように、サピエンスは、言葉を用いる。
そして、ウソや概念を共有できることで、群れを行き来できる。

であるがゆえ、このような現象が生じる。

 

つまり、生得的に人間は中2病を愉しむための回路を有しており、

それは、人間が進化の過程で身につけたものなのだ、

「生理現象に由来する社会性行動」

これが
中2病や、宗教の根本的な正体である。


では、これらは、なぜ人間社会で受容されて、再生産され続けるのか。

その理由は、前述した通り、共同体の管理維持において有用だからである。


本稿では先ほどゴリラの例を挙げたかが、私たちはこれを野蛮と笑うことは、全くできない。


そもそも人権や個人の生命の尊重などという概念は、ここ数十年に台頭してきた比較的新しい概念であり、それまでは個人を損耗し、社会を持続させるというのが、人類の通奏低音だったからである。


ジャレド・ダイアモンドが「昨日までの世界」で記しているように、人類史の中では概ね、己の優位性を堅持できない者は、殺害されてしまう。


舐められたら終わり、の世界のほうが、人類史では長かった。
戦争に負けたら男性は皆殺しにされ、
女性は奴隷化されて子作り、

それが人類史のデフォルト・スタンダードなのである。(このことは遺伝子解析で、過去の男性の大量死、おそらく原因は戦争という直接的な証拠がスタンフォード大学遺伝学教授のマルクス・フェルドマンにより、すでに発見されている)

 

暴力はエンタメであり、中2病はそれによって、共同体が崩壊するのを防ぐためのエクスキューズとして機能した。


非定型発達や病理を社会的にエンターテイメントとして組み込み、あるいは搾取して群れを維持する。

それは、人類が長い歴史の中で巧みに生み出してきたある種の「企み」であり、
中2病は、社会を安定化させる可塑剤アモルファスなのだ。

 

 

♦︎

5.


ちなみに断っておくが、宗教=精神障害という概念は、私たち伝承病理学研究会によるオリジナルのものではない。

この主張の起源は、フロイトにまで遡る。


「人間モーセ一神教
「トーテムとタブー」

によると、彼の宗教論は、精神分析の成果を応用したものだ。

精神分析は個人の心理を対象にしている点で個人心理学といえるが、宗教は個人を超えた人間集団の現象なので、フロイトはそれを集団心理学の問題だと言っている。そのうえで、個人心理学と集団心理学は同じ基盤に立っているとする。その基盤とは、無意識の衝動を中心にした精神的なダイナミクスのことをいう。その無意識的な衝動が宗教の源泉だというのがフロイトの基本的な考えである。そういったわけだから、「宗教的現象は、個人の神経症的症候を雛形にしてこそ理解できる」(「人間モーセ一神教吉田正己訳)


そう、ここで記されているように、「無意識的な衝動」こそが、宗教の源泉である。

そして、この無意識的な衝動を起こすのが、

人間の環境によって決定される遺伝的なソフトウェアのこと、

それから、環境要因による行動最適化、自己組織化の結果であること、

というのが、本稿の骨子だ。


フロイトも宗教を、はじめは共同体の成員を結びつけるものとして考えた。


が、次第に人類全体の関心事ととらえるようになった。そうすることで、宗教が人種間の争いを促進することがないようにしたいと思ったのだろう。

いわば、社会の糊としての中2病を彼は意識していた。

 

しかし、現実を見れば、全ての宗教は人殺しをしている。

これは遺伝子の働きや、武器の殺傷能力の洗練化まで、視点を広げなかった事が原因ではないかと思われる。


小集団では接着剤として機能するが、大集団では、戦争の火種になる。

ダンバー数(霊長類の群れの数から逆算した、生物学的に人間が認識可能な数の上限のこと)

のように、遺伝学的に人間の認知に限界がある事が、戦争や、民族虐殺といった「大げんか」の原因となるのではないか?


また、フロイトと同時代のフランスの社会学エミール・デュルケームは、宗教を論じる際、

これは聖と俗の二分法こそが宗教の中心的特色であると考え、聖なるものは特定集団の関心、とりわけ統一性を表象するものであり、これはその集団が共有する聖なる象徴、トーテムに具体的にあらわれているとした。

他方、俗なるものは日頃の個人の関心事に関わるものであり、聖俗二元論は善悪の区分と同一ではないとした。

聖なるものは善であることもあれば悪にもなりうるものであり、俗なるものもどちらにもなりうる、、、というのがデュルケームの理論だ。


これは、非常に本稿と近しい見解であるが、この論理は人間の認知におけるシンボリズムに終始しており、病理に関する知見が欠けていた。そこが本稿と異なる点である。

 

また、フレイザー金枝篇にて、人類の知的発展が呪術から宗教へ、宗教から科学へという進化的過程を経ることを主張した。


これも、本稿の主張とかぶるが、呪術の発生について、病理という認識ではない。


宗教や悪魔、神について論じるにあたり聖と俗は、分類法として不適切であり、病理と政治の二元論に分類するべきである。というのが本稿の主張である。


また、宗教の起源は、知的発達が呪術を生み出し、それが宗教に発展したのではなく、

まず悪魔憑きという病理に対し、治療を行うという極めて実利的、実践的な観点が、

「聖」と「邪」の概念を生み出したこと、そして

 

他者がその治療行為を政治の道具として利用することで、宗教が生まれ、社会が安定化し、化学が発達したと、私たちは、主張する。

(悪魔から生まれた化学を用いて、悪魔を解剖するというウロボロスが本稿である)

 


ファンタジーとサイエンスの幸せな融合マリアージュ、ゆえに私たちはこれを、伝承病理学と名づけた。

そう、化学とは、闇の中で生まれた魔術の子なのだ。

 

 

♦︎

終わりに、


2023年7月現在、ロシアは、ウクライナと戦争している。

これは古代史における暴力が、より拡張された形で現代に蘇った状態であると解釈できるであろう。

ならば、前述したように、古代の宗教や演劇、そして中2病によって、人類を結び、世界の崩壊を免れさせることもまた、可能なのではないか?


人工知能という、超知性が誕生した現代において。

AIを使って同胞を効率的に殺害するというのは、愚の再生産である。


私たちは、私たち自身が、私たちのために奉仕する新しい神をつくり、私たち全員の幸福を追求しなければならないと考える。


かつて私たちの祖先が、そうやって生き残ってきたように。


新しい神や、秩序を作る上で、この論考が、その一助になれば幸いである。


中2病とは、どんな時でも、誰もが持っている、人間に元から備わった前向きな力を思い出させてくれる存在なのだ。